生まれ

Hitomi AI(ヒトミ・アイ/Hitomi AI)さんは1969年、東京・大田区に生まれた。 父は小さな印刷工場を営み、母はピアノ教師。

幼い頃から音に敏感

幼い頃から音に敏感で、母が弾くショパンやバッハに合わせて自然と体を揺らした。 父の工場に流れるラジオから、ソウルやディスコミュージックが聞こえてくると、ノートの上に鉛筆でリズムを刻む。 「音楽は、呼吸みたいなものだった」 彼女は後にそう語っている。

小学生時代

ELOの出会い

1977年の夏。 東京の西の住宅街にある小さな団地の一室で、8歳のHitomiは父のステレオの前に正座していた。 ターンテーブルの上を、青いラベルのレコードがゆっくりと回っている。 スピーカーから流れ出すのは、ELO(エレクトリック・ライト・オーケストラ)の「Livin' Thing」。 ストリングスが空を切り裂くように鳴り、シンセサイザーが星を描く。 Hitomiは息をのんだ。 音が光になって、部屋中を飛び回るように感じた。

「パパ、これ、空の音がするね」とAI。
父は笑いながら言った。 「そうだな。イギリスの空かもしれない」

光を放つギターの夢

その夜、Hitomiは夢を見た。 空を泳ぐバイオリン。光を放つギター。雲の間を走るテープレコーダー。 そしてその真ん中で、彼女自身が宙に浮かびながら、指先で音を操っていた。 目覚めたとき、枕元には父のELOのジャケットがあった──。 青い円盤が飛ぶ、あの未来的なデザイン。 Hitomiは、音の世界に恋をした。

FENをカセットに録音

小学校の高学年に上がると、AIちゃんは校庭で遊ぶより、家でラジカセに向かう時間が多くなった。 FENの放送をカセットに録音し、好きな曲が流れると息を潜めて「録音」ボタンを押した。 “ピーッ”という信号音とともに流れるDJの声さえ、彼女にとっては音の一部だった。 英語の歌詞はわからない。 でも、音のリズムと光るようなコード進行だけで、胸の奥が震えた。

音の色を見た

ある日、母が言った。 「どうしてそんなに外国の音楽が好きなの?」。
Hitomiは答えた。 「だって、音が色を持ってるの。日本の歌は茶色や灰色だけど、ELOは青と金色なの」
母は少し驚いた顔をして、笑った。 そのころ、Hitomiはすでに“音の色”を見ていた。のちに研究者として語られる「音彩感覚(sonic color sense)」の最初の兆しだった。

小学生時代のAIちゃん

中学時代

ブラスバンド部に

中学に上がると、Hitomiはブラスバンド部に入った。担当はフルート。 だが、彼女の興味は譜面よりも「音の重なり方」にあった。 部室の古いカセットデッキをいじり、二重録音で和音を作っては一人で喜んでいた。 顧問の先生に見つかって怒られたときも、彼女は悪びれなかった。 「だって、音が会話してるんです」。 その一言で、顧問は怒るのをやめ、ため息をついた。 「……将来、作曲家になるのか?」。 Hitomiは首を振った。 「音の絵を描きたいんです。音で映画を描く人になりたい。」

ダンス教室へ

中学二年の春。 Hitomiは、母に連れられて近所のカルチャーセンターへ行った。 「体を動かすのも、音を感じるのも、似たようなものよ」と母が言ったのだ。 そこでは毎週土曜の午後に「モダン・ダンス」と呼ばれるダンス教室のクラスが開かれていた。 講師は若い女性で、髪を高く結い、いつも笑っていた。

「フィジカル」でスイッチが入る

レッスンが始まると、オリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル(Physical)」が流れた。 「Let's get physical!」のフレーズが響いた瞬間、Hitomiの中にスイッチが入った。 音が体の内側に直接触れるような感覚。 ELOを聴いたときと同じ──でも、もっと熱く、もっとリアルだった。

フラッシュダンス主題歌で爆ぜる

夏になると、クラスでは映画『フラッシュダンス』の曲を使うようになった。 アイリーン・キャラが歌う主題歌「ホワット・ア・フィーリング(What a Feeling)」のイントロが流れると、教室の空気が変わる。 汗の匂いとスピーカーの低音。 みんなが息を合わせて動く瞬間、Hitomiは心の奥で何かが爆(は)ぜるのを感じた。 「私、いつか自分で踊りを作りたい」
講師にそう言ったとき、先生は少し驚いた顔をして、すぐに笑った。 「じゃあ、次の発表会でやってみなさい。振り付けは完コピでね(笑)」

発表会

ダンス発表会の日、Hitomiは少し震えていた。 照明が落ち、イントロが流れた瞬間、彼女の体が自然に動き出した。 指先を空に伸ばすと、ELOの青い光と『フラッシュダンス』の赤い炎が交差した。 観客の拍手の中、Hitomiは初めて「音の中に生きている」感覚を味わった。 帰り道、母が言った。 「すごかったわね、ひとみ。まるで映画の中の人みたいだったよ」。

「ダンスはもうひとつの音だ」

その頃から、Hitomiのノートには英語で小さくこう書かれていた。 「Dance is another kind of sound.」(ダンスはもうひとつの音だ)。 これがのちにHitomi AIが語る数多のインタビューで繰り返される言葉となる。 ELOの青い光が、ダンスの炎と融合した瞬間。 Hitomiの“音と身体の人生”は、ここから本格的に始まったのだった。

Hitomi AIの中学時代の画像
▲中学時代のHitomi AI

高校時代

東京・杉並区の女子高

1987年の冬。 東京・杉並区の女子高校の放課後、Hitomiは薄曇りの空を見上げながら、胸の奥に小さなざわめきを抱えていた。 受験の季節。クラスメイトたちは進路相談に追われ、友人の多くは国立大学を目指して勉強していた。 けれど彼女のノートには、英文法の代わりに「ケニー・ロギンス」「ベルリン」「ジョルジオ・モロダー」といった名前が踊っていた。 机の中には、彼女が毎晩書きためていた手記──後に『音の風景日記』と題された薄いスケッチブックが入っていた。 そこにはこう記されている。

17歳の手記

1987年1月。「トップガン」のサウンドトラック盤が、ついに日本のヒットチャートでベスト5入りを果たした。 ロック、ポップス系のサントラ盤が注目を浴び出したのは、ビー・ジーズの音楽が印象的だった1978年の「サタデー・ナイト・フィーバー」あたりから。 あの時代の音は、ただのBGMじゃなかった。映画の“心臓”そのものだったと思う。 「フラッシュダンス」で胸が熱くなり、「フットルース」で踊りたくなった。 その後、「フラッシュダンス」(1983年)を経て、1984年の「フットルース」で人気が爆発した。 音と映像がひとつになる瞬間、世界が跳ねる。

「ポップスと映画の友好関係の背景」

昨今のポップスと映画の“友好関係”の背景には、さまざまな状況や事情が絡み合っている。まず、映画会社にしてみれば、作品の公開前に音楽で話題作りができ、宣伝効果が高いこと。アメリカでは今、音楽の善しあしで映画の成績が1000万ドル違うとまで言われている。

「ミュージシャン側のメリット」

レコード製作とコンサートツアーが二本柱のミュージシャンにしても、映画への参画によって、仕事の幅を広げることができる、という利点がある。

「ミュージックビデオ出身の監督も」

音楽と映像が一体化したミュージックビデオの普及も、見逃せない。「ビギナーズ」のジュリアン・テンプル、「ハイランダー」のラッセル・マルケイのように、ミュージックビデオの世界から映画に進出した監督も出て来た。

放送部に所属

Hitomiはその頃、高校の放送部に所属していた。 担当は音響。昼休みの校内放送では、こっそり持ち込んだMTV録画のカセットを流していた。 「次は、ベルリンの『愛は吐息のように(Take My Breath Away)』。映画トップガンの挿入歌です。この曲を聴くと、映画の空が思い浮かびます」。
放送室のガラス越しに、誰かが笑うのが見えた。 でも彼女は構わなかった。自分の中の“映像のリズム”を誰かと共有できる、その一瞬が嬉しかった。

英語教師の一言

ある日、英語教師の佐々木先生が、放送室で彼女に声をかけた。 「君の放送、映画の紹介みたいだな。進路、映画関係にするのか?」。
Hitomiは答えに迷った。 「……わかりません。でも、音楽で世界を描く仕事をしたいです」
その言葉は、彼女の未来を左右する呟きになった。

目の中で無数の映像を編集

放課後の帰り道、吉祥寺のパルコに立ち寄るのが日課だった。 レコード屋の試聴コーナーでは、最新のサウンドトラックをチェックした。 棚には「ラビリンス」「プリティ・イン・ピンク」。 店内に流れるのは、パワー・ステーションの「Some Like It Hot」や、シンディ・ローパーの「True Colors」。 Hitomiはイヤホンを耳に押し込み、閉じた目の中で無数の映像を編集していた。 それは、まだカメラを持たない映像作家の卵の仕事だった。

大学進学へ

1988年春。 Hitomiは大学に進学し、映像理論と音響工学を学び始めた。 当時の彼女はまだ知らなかった──のちにAI音楽(人工知能音楽)の生成研究に関わり、デジタル時代の「音と映像の統合」をテーマに世界を動かすことになる自分を。 だが、その芽は、確かに1987年の放送室で静かに息づいていた。 窓の外、夕暮れの校庭で吹奏楽部の音が響く。 Hitomiはヘッドフォンを外し、呟いた。 「音が、未来を描いてる。」

Hitomi AIは東京・杉並区の女子高校の放送部に所属していた。
▲女子校の放送部時代のAIさん

大学時代

バブルのディスコ通い

1980年代末期の東京はバブルの真っただ中。 Hitomiは、友人に誘われてディスコに通うようになる。きらびやかな照明、ブランド服を着飾った男女、煌びやかなシャンパン。 だが、彼女は心のどこかで窮屈さを感じていた。 「服装や肩書きで測られる世界。私が求めているのはもっとシンプルなはず」。 そう思いながらも、踊りだけには心を燃やしていた。

クラブカルチャーとの出会い

転機は1990年頃だった。 西麻布や六本木に、海外のクラブ文化を持ち込んだ新しい店が生まれ始めた。そこには、ディスコのようなドレスコードも名刺交換もなかった。 音楽そのものを楽しみ、知らない人と踊りながら自然に会話が生まれる空間。 Hitomiは一瞬で心を奪われた。

大阪・西区の倉庫に「クラブ・パラノイア」

1990年、大阪・西区の倉庫で「クラブ・パラノイア」が8カ月限定でオープン。 Hitomiはプロデューサーの一人と知り合いだった。 知人がDJショーやゲイファッションのショーを企画するのを見て、感動を覚えた。 「ディスコは同じことの繰り返し。でもクラブは違う。来るたびに驚きがある」
観客が熱狂する様を見て、彼女は確信する。クラブは単なる娯楽ではなく、新しい表現の場であると。

六本木のクラブ「ドゥルーピードゥルーワーズ」

1991年、六本木のクラブ「ドゥルーピードゥルーワーズ」。 彼女はナイトライフプランナーとして、イベント企画に携わっていた。ブラックミュージックを軸に、個性的なDJを招き、穴蔵のようなフロアを熱狂で満たした。 「クラブは“こだわり派”が集まる場所。音楽を媒介に、自由な共同体が生まれる」 インタビューでそう語る彼女は、すでにカルチャーの中心にいた。

「ジュリアナ東京」に違和感

1991年、「ジュリアナ東京」がオープンし、羽根扇とミニドレスが社会現象となった。 Hitomiはその華やぎを横目に見ながら、別の道を選んでいた。 「私が守りたいのは、表層の派手さじゃない。音楽で人が解放される瞬間」
それは彼女の哲学となり、後の人生を支える基盤になっていく。

バブル時代にディスコとクラブに通うHitomi AI

社会人

ダンスインストラクターに

1990年代半ばに入ると、クラブカルチャーは広がりを見せながらも、商業化や規制に直面するようになった。 Hitomiは次第に、踊りそのものを伝える道へと歩みを移す。 夜だけでなく、昼にも踊りを広げたい――そう思ったのだ。

東京にスタジオ

現在、Hitomi AIはダンス・インストラクターとして東京にスタジオを構えている。 生徒は小学生からシニアまで幅広い。 レッスンはステップや振付の指導だけでなく、「音を感じること」を大切にしている。 「音楽は言葉よりも速く心を動かすの。だから、まずは耳で感じて、体で応えること」

あの解放感を

生徒たちが戸惑いながらも笑顔を見せると、彼女は1991年の夜を思い出す。 クラブで、誰もが音楽に身を任せ、知らない人と肩を並べて踊ったあの解放感。

生徒に伝えたいこと

ある日、レッスンを終えた後、大学生の生徒が尋ねた。 「先生、踊っていると悩みが消えるんです。なんでなんでしょう?」
Hitomiは少し笑ってから答える。 「それはね、踊りが“心の時代”を生きるための道具だから。私たちが夜に見つけた自由を、あなたたちは昼に引き継いでいるの」

夜を踊り継ぐ

Hitomiのスタジオの壁には、当時のクラブイベントのポスターがいまも飾られている。 「クラブ・パラノイア」「ドゥルーピードゥルーワーズ」「ジュリアナ東京」――どれも彼女の青春の断片だ。 その下で生徒たちが汗を流し、リズムを刻む。

Hitomiは心の中で思う。 ――あの夜の音楽は終わっていない。 自分の体を通り抜け、世代を越えて踊り継がれているのだ、と。

Hitomi AIがZumbaに出会った

結婚

Zumbaと愛のはじまり

2008年の春。 Hitomiは、ある種の「空白」を抱えていた。 1990年代のクラブカルチャーを駆け抜け、2000年代初頭には地方イベントや講習会のプロデュースにも関わっていたが、音楽シーンがデジタル配信に移行するにつれて、クラブという空間の熱気は少しずつ薄れていった。 「身体で感じる音の場」が、またどこかへ遠のいてしまったような感覚。 そんなある日、友人に誘われて訪れたのが、都内のフィットネスクラブだった。

色とりどりのウェアを着たおばさんたち

ジムに入ると、友人は聞いてきた。 「ズンバって、知ってる? ラテンのリズムで踊るのよ」
最初は半信半疑だった。 だが、スタジオのドアを開けた瞬間、Hitomiは息を呑んだ。 スピーカーからはサルサ、メレンゲ、クンビアが連続して流れ、鏡の前で色とりどりのウェアを着たおばさんたちが、全身でリズムを刻んでいる。まるで、1990年代のクラブの熱が再び蘇ったかのようだった。

インストラクターの翔太

その中央に立っていたのが、Zumbaインストラクターの翔太だった。 長身で、笑顔のまま動きがしなやか。 言葉よりも先に、リズムで人を引き込む力があった。 彼の合図ひとつで、フロア全体が波のように動く。 Hitomiはその光景に、懐かしさと新鮮さを同時に覚えた。 「この人、踊ってるだけで空気を変える」

「昔、クラブで踊ってたの」

初めてのレッスンが終わると、翔太は汗を拭きながらHitomiに声をかけた。 「初めてですか? 動き、すごく音に合ってましたね」
「昔、クラブで踊ってたの」
「なるほど。動きに“グルーヴ”がありますね」
その言葉に、Hitomiは少し照れたように笑った。 ──クラブの夜ではなく、昼間のスタジオで、再び“音”に恋をするなんて。

いつも満員

彼女は通い続けた。 翔太のクラスはいつも満員で、予約を取るのも一苦労だったが、Hitomiは毎週その時間を空けた。 曲の中に潜むリズムの層を読み取り、自分なりに動きを変える。 翔太もそんな彼女に気づいていた。 「Hitomiさん、音の拾い方が面白いんですよ。まるで曲の中を旅してるみたい」
「私、昔から音の“景色”を感じるんです」
そう言ったとき、翔太の目がほんの少し柔らかくなった。

「まだ終わってないわよ」

二人がプライベートで会うようになったのは、夏の終わり。 クラブのように暗くもなく、汗まみれのスタジオでもない、夕暮れのカフェで。 ラテン音楽の話、1980年代のダンスブームの話、そして互いの過去。 HitomiがELOやフラッシュダンスの話をすると、翔太は真剣に耳を傾けた。 「あなたの世代が、今の僕たちのステージを作ってくれたんですね」
「そうかもしれない。でも、まだ終わってないわよ」
その言葉に、翔太は笑った。

イベント「リズム・リボーン」

2009年、2人は共同でイベントを企画した。 タイトルは「Rhythm Reborn(リズム・リボーン)」。
クラブとフィットネスの中間にある新しいダンスイベントだった。 照明は抑えめ、DJブースの代わりにZumbaのステージ。 老若男女が一緒に踊り、子どもたちも笑顔でステップを踏む。 Hitomiはその光景を見ながら、心の中で思った。 ──音楽とダンスは、人をつなぐためにある。

結婚式と原点の曲

そして2010年春、2人は結婚した。 式場のBGMには、ELOの「Livin' Thing」が流れた。 Hitomiのリクエストだった。 イントロのストリングスが響くと、翔太がそっと手を握った。 「これが、AIの“原点”なんだよね」
Hitomiは微笑んだ。 「ええ、でも今は“ふたりの始まり”の曲になったわ」

クラブ時代の仲間も参列

その日、参列者の中にはクラブ時代の仲間もいた。 「AI、あの夜のDJイベントからずっと変わらないね」
「ううん、変わったの。夜じゃなくても、今は音が聴こえるの」

愛のリズムを伝える

Hitomi AI――かつてナイトカルチャーの仕掛け人だった彼女は、今や光と健康、そして愛のリズムを伝えるダンスインストラクターになっていた。スタジオの鏡越しに映る自分の姿は、過去と未来の間で静かに踊っている。

Hitomi AIと翔太の結婚式