日本のダンスホールの歴史

戦後の社交ダンスブーム

戦後の日本で流行したダンスホール(キャバレー)は、ダンスができる広いフロアと華やかなバンドが特徴だった。ジャズやムード音楽、ポップスを聞きながら、お目当てのホステスとグラスを傾ける。バンドはレベルが高かった。「大人の社交場」と称された。

音楽

戦後直後のダンスホール(キャバレー)では、最高の音楽に接することができた。1947年(昭和22年)は、戦争中ひっそりと温存されていた昔の名曲と進駐軍キャンプ直送の最新メロディーがほどよくブレンドされ始めた時期。米軍キャンプで腕を磨いた連中が日替りでステージに立つのだからこたえられない。

カサブランカをはじめ映画の影響も大きく、バンドマンが映画のスタイルをまねて演奏すると大受けだった。その後、朝鮮戦争の終結でキャンプの仕事がなくなった一流バンドがどっとキャバレーに進出した。

風営法で「1号営業」

キャバレーはステージやダンスフロアを備え、風営法で「1号営業」に属した。

接待で「社用」として利用

戦後復興とともに、接待などで使うサラリーマンが増えた。「社用族」という言葉も生まれた。

大阪ではアルサロ

大阪にはアルバイトサロン(通称・アルサロ)と呼ばれたキャバレーも登場し、昼から営業していた。

起源と歴史

元祖はパリ

キャバレーの元になったのは戦前の欧州文化だ。19世紀にパリで始まった。

1881年11月18日の夜、パリのモンマルトルに開店した「黒猫(シャノワール)」が第一号。店の名は、店主のロドフル・サリがエドガー・アラン・ポーの怪奇小説から借用した。近代のシャンソン、風刺演芸、軽演劇、美術、文芸はここから誕生したともいえる。

日本では

日本におけるダンスホール(キャバレー)のルーツは、昭和初期に流行した「カフェー」だった。当初は文字通り喫茶店だったが、やがて酒を出す店が分化し、女給も色気を売り物にするようになっていった。しかし、戦時下で途絶えた。

戦後の社交ダンス熱

戦後のキャバレーは、占領期の社交ダンス熱から生まれた遊び場だった。アメリカ文化が色濃く反映された。とはいえ、戦前のカフェの女給さんがダンスのお相手をつとめた日本のダンスホール文化の延長でもあった。

占領下にRAA

終戦から2週間もたたずして、RAA(進駐軍特殊慰安施設協会)という団体が生まれた。当時、米兵による日本人女性への暴行事件が多発しており、日本政府の後押しで、キャバレーやダンスホールを作ろうというものだった。

RAAによる施設は、銀座や品川、赤羽など東京都内各地にできていった。

日本人の専用時間も

ダンスホールは進駐軍と日本人で専用時間が分かれていた。日本人の時間になると、数百人の大入りになり、フロアは踊るどころか満員電車みたいだった。

高度経済成長期の1960年代のダンスホール

絶頂期

福富太郎著「昭和キャバレー秘史」によると、警視庁の発表で1960年(昭和35年)時点のキャバレーの数は1743店だった。1966年(昭和41年)には全国のホステスが35万人を突破した。「社用族天国」という言葉も生まれた。キャバレーの絶頂期だった。1972年(昭和47年)の石油ショックの後に、ピンクキャバレーに主役の座を奪われ、衰退した。

「ハリウッド」の登場

1960年3月、新橋駅西口に「ハリウッド」1号店が開店。3年後には池袋店。東京オリンピックの1964年(昭和39年)には、ついに銀座に進出した。

巨大な銀座店

巨大な「銀座ハリウッド」は、銀座八丁目に立地。延べ面積1000坪、在籍ホステス数800人。「万里の長城」「戦艦大和」「銀座ハリウッド」と3つ並べた広告が大評判になった。

「ハリウッド」には、作家の遠藤周作や福田赳夫元首相といった著名人も訪れた。首都圏を中心に20店舗まで直営店を拡大した。従業員は3000人を数えた。

大衆キャバレー

大衆キャバレーと位置付け、「金持ちでなくても楽しめる」をモットーにした。ホステスのために託児所も用意した。

また、いわゆる「お触り」などのいかがわしいサービスは一切ない。大人のための、紳士のための健全な社交場をつくってきたことの社会的功績は大きい。

最後は赤羽店と北千住店

最後は赤羽店と北千住店だった。2018年(平成30年)12月30日に閉店。

経営者・福富太郎氏

「ハリウッド」の創業者は福富太郎氏(本名・中村勇志智)。

1931年(昭和6年)、東京・大井町(品川区)に生まれ、中学2年のとき敗戦を迎えた。学校の農園のイモを掘り出し、焼け跡で見つけた鍋でゆでて売ったというから、若いころから「商才」があったらしい。

飢える生活に愛想を尽かし、学校を中退。新宿のキャバレーにボーイとして住み込む。3年間無欠勤。掃除、皿洗いと必死に働いた。生真面目さとユーモアと頓知。信長につかえる藤吉郎(のちの豊臣秀吉)のようだった。

26歳のときキャバレー経営者として独立した。「キャバレー太郎」と呼ばれるようになった。

キャバレー・料亭部門で所得番付全国1位にまで上りつめた。

永眠

2018年5月29日(86歳没)

赤坂の「ミカド」

このほか、1961年(昭和36年)、東京・赤坂にレストラン・シアターと銘うって「ミカド」が開店した。 海外の有名な歌手や楽団が来演して、着飾った男女が集まっていた。このころから、ショーを売りものにする大規模な店が東京のそこかしこにできた。